1950-03-29 第7回国会 参議院 本会議 第34号
(拍手、「独断だ」と呼ぶ者あり)尚いわゆる反動の帰還遅延に関し重大なる役割を演じた者は、日本新聞に日本人幹部としてその地位を占めていた相川春喜、宗像肇、吉良金之助及び淺原正基の四君、及び各地区收容所におけるいわゆる反動分子に対して実際にとつた手段は、自己の背景を利用し、且つ帰国切望という弱点に乘ずる半ば脅迫、恫喝であり、殊に実際に帰還の遅延を図るがごときに至つては正に非人道的と言わざるを得ない。
(拍手、「独断だ」と呼ぶ者あり)尚いわゆる反動の帰還遅延に関し重大なる役割を演じた者は、日本新聞に日本人幹部としてその地位を占めていた相川春喜、宗像肇、吉良金之助及び淺原正基の四君、及び各地区收容所におけるいわゆる反動分子に対して実際にとつた手段は、自己の背景を利用し、且つ帰国切望という弱点に乘ずる半ば脅迫、恫喝であり、殊に実際に帰還の遅延を図るがごときに至つては正に非人道的と言わざるを得ない。
実は昨日申上げましたように、私が管理部から品田忠之君と二人轉属を命ぜられますときに、新聞社の特派員であります宗像肇、吉良金之助、それに通訳一名がおりました部屋に呼びつけられたのでございます。そうして中隊は將校を中心とした反動中隊である、お前達は反動中隊であるという宣言を受けて、我々は轉属を命ぜられたのであります。
從いまして私が参りますと、私は日本新聞を出て來る場合にも宗像肇君は、君がこういう罰則が付くことを默つておる、そういうことを、はつきり言われて、私がどういう失敗をしたか、アンチソヴィエトになつたかということがソヴェエトの將校だけでありました。知つてる者は、そのために私の仕事はやりよかつたであります。それははつきり認めます。
天皇制問題、財閥解体問題、これはその当時日本人としまして初めての試練でありまして、これは宗像肇そのものもそうでありますが、非常に書き難くかつた問題であります。私はこれは率直に認めます。と言つて私は決して現在財閥の擁護論者ではありません。これはその当時の心境であります。それからもう一つは帰さん……。